【レビュー】『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』鈴木董

アジアとヨーロッパが交わる街、イスタンブル。昔から東西交通の一大ターミナルとして重要なこの都市は、その二千数百年におよぶ歴史のなかで、3つの名前を持ちました。

古代ギリシア人によって建設されたときにはビザンティオン、コンスタンティヌス帝によってローマ帝国の首都となったときにはコンスタンティノープルとなり、その後オスマン帝国がこの街を征服してからは、イスタンブルという名前で呼ばれることになりました。

3つの名前で広く知られるこの街は、ローマ帝国、ビザンツ帝国、オスマン帝国という3つの大帝国の首都となるほどに重要な都市でした。ローマ帝国やビザンツ帝国の繁栄については日本でもよく語られますが、オスマン帝国について語られることはほとんどありません。じつは600年以上にわたって続いた超大国であったにもかかわらず。

むしろ、コンスタンティノープルの破壊者、イスラム教徒による専制的な国家というイメージ。それはもしかしたら、オスマンに征服された側の西洋的な歴史観が広く浸透しているからかもしれません。

オスマン帝国内には、たくさんの民族、たくさんの宗教、たくさんの言語が混じり合っていました。本書では、そんな強靭な支配と緩やかな共存のシステムによる「柔らかい専制」がどんなものだったか、13世期末のオスマン帝国の成り立ちから、18世期末に西洋化によって変容していくまでのようすが詳しく描かれています。

Hibino’s Point
  • アナトリアから始まり、広大な領地を支配して、シルクロードの交易を独占した
  • 多様な民族、宗教、言語を内包する緩やかな専制国家だった
  • 近代西欧ナショナリズムの浸透により衰退することとなった
目次

オスマン帝国の成り立ち

もともとビザンツ帝国の土地だったアナトリアに、遊牧民族であるトルコ人が入ってきます。トルコ人はもともとはシャーマニズムを信仰していましたが、イスラム教徒であるアラブ人が中央アジアに進出するにつれて徐々にイスラム化が進んでいきます。

そしてアナトリアの地は、次第に縮小していくビザンツ世界と、拡大していくイスラム世界、そしいて十字軍以降いくつかの拠点を築いたラテン系カトリック教徒たち、3つの勢力がぶつかり合う土地となりました。

そこへモンゴル人の侵攻があり、群雄割拠の世界となった後の真空地帯に、オスマン帝国の始祖、オスマンが率いる戦士集団が育っていくことになりました。オスマンから始まる歴代の君主は以下のとおりです。

オスマン:伝説の始祖
オルハン:アナトリア西北部のビザンツ帝国領を征服
ムラト1世:バルカン半島進出
バヤズィット:別名・電光。十字軍を撃破。アッバース朝カリフからスルタンの称号をもらう。

バヤズィットはコンスタンティノープルを3回も包囲するほどの勢いを持っていましたが、中央アジアから同じムスリム・トルコ系のティムールが攻めてきてアナトリアのオスマン領の多くを返還させられました。その後に起きた王子たちの領地争い。それによりオスマン帝国は分裂と解体の危機を迎えます。

メフメト1世:オスマン帝国滅亡の危機からなんとか領地を再統一
ムラト2世:頑張って失地回復

メフメット2世によるコンスタンティノープル陥落

ムラト2世の没後、オスマン朝第7代スルタンに即位したメフメット2世(厳密には、ムラト2世存命中からときどきスルタンに即位していたのですが)。若いメフメット2世は、これまでのスルタンがなし得なかった、コンスタンティノープル征服という目標を掲げます。

先代からの宰相、チャンダルル・ハリル・パシャはそんな無謀なことをしなさるな、と若い王と対立しますが、メフメット2世はウルバンに巨砲を作らせたりしてコンスタンティノープルを包囲。ついに征服します。

メフメット2世は、征服したコンスタンティノープルをムスリムの住みやすい街に改造し、激減していた人口を回復させようとしました。モスクを中心とした街づくりを行い、バザールが繁栄しました。

メフメット2世時代のオスマン帝国には、多くの民族、宗教、言語が入り混じっていました。ここに「寛容な専制国家」の基礎が誕生したのです。

オスマン帝国を完成させたスレイマン

メフメット2世はイタリア征服を目指していたと言われていますが、それを実行に移す前に亡くなってしまいます。

立派な王が急逝したら必ず起こるのが王位争いです。混乱の末、メフメット2世の息子、バヤズィット2世が即位します。しかしこのバヤズィット2世は非常時の指導者としては優柔不断すぎました。

バヤズィット2世を廃して自らスルタンとなったのが、その息子セリムでした。第9代スルタンに即位したセリム1世は、マムルーク朝を征服し、オスマン帝国はユーラシアとアフリカを繋ぐ交易ルートのほとんどを支配下におくこととなりました。

セリム1世はマムルーク朝征服後まもなく亡くなります。その後即位したのがセリム1世の息子、スレイマンです。スレイマンは眉目秀麗な青年だったそうです。

東を目指した先代セリム1世と対照的に、スレイマン1世は西方を目指しました。そしてハンガリーでオスマン帝国とハプスブルグ勢とがぶつかります。

ハプスブルグ出身のスペイン王カルロス1世は神聖ローマ帝国皇帝カルロス5世として即位していました。この時カール5世と神聖ローマ帝国皇帝の座を争って敗れたフランス国王フランソワ1世は、カールとの抗争に負けまくり、ついにスレイマンに救いを求めます。

スレイマンはこの要請を受けてフランスと友好関係を結び、ハプスブルグ家の牙城ウィーンへと軍を進めます。ハプスブルグ家の必死の守りと、ウィーンの厳しい冬のために、スレイマンは攻めきれず包囲を解いて撤退します。しかしこの一件は、西欧キリスト教世界にすぐ目の前までオスマン勢力が迫ってきていると印象づけることとなりました。

「組織の帝国」オスマン帝国

地中海を「スレイマンの海」と呼び、広大な領地を手に入れたスレイマン時代に、オスマン帝国の君主専制的・中央集権的な支配が完成されました。

その支配体制の特徴として、政権担当者である宰相、意思決定機関である御前会議、文書で行われた行政、貨幣ベースの経済、租税制度、裁判・行政担当のイスラム法学者、驚異の常備軍団、などが挙げられています。

また、学校制度が整備されたこと、小姓たちも宮廷内で出世できたことも、オスマン帝国の支配の柔軟さの現れだと書かれていました。

『新 もういちど読む山川世界史』(山川出版社)にも、「多民族・多宗教国家オスマン帝国」というコラムに以下のような記載があります。

オスマン帝国は、長いあいだ「オスマン・トルコ」とよばれてきた。オスマン帝国はトルコ人の国だと認識されていたのである。しかし、現在は、「オスマン・トルコ」ではなく、「オスマン帝国」や「オスマン朝」という呼称が用いられるようになっている。(中略)もともと、イスラーム(ムスリム)諸王朝においては、キリスト教とやユダヤ教徒は、啓典の民として保護民(ズィンミー)と位置づけられ、人頭税(ジズヤ)の支払いを条件に信仰の自由が認められてきた。オスマン帝国もこの原則を踏襲したのである。(中略)1453年から1600年までに大宰相を務めた36名中、トルコ人と思われる者がわずか5名に過ぎないという事実は、オスマン帝国の多民族国家としての特質を象徴している。

多民族・多宗教国家オスマン帝国『新 もういちど読む山川世界史』

まとめ

このように広大な領地を持って、600年以上栄えてきたオスマン帝国ですが、16世期のレパントの海戦でキリスト教徒の連合艦隊に完敗します。この頃からオスマン帝国の衰退が始まったと言われています。

内外に開かれていたオスマン帝国において、西欧諸国に留学する人々の中から、近代西欧の新しい思想が広がっていきます。こうした、オスマン帝国への近代西欧的ナショナリズムの浸透が、「柔らかい専制」というオスマン帝国のシステムを根底から揺るがすことになりました。その流れから、オスマン帝国領土内の民族紛争と宗教紛争へと繋がっていくこととなりました。

本書は次のような文章で締めくくられています。

「柔らかい専制」の崩壊を予感しながら、その最期の姿を見る前に、我々はこの歴史の旅を終えることにしよう。しかしこの「忘れられた超大国」オスマン帝国の歴史は、単に世界市場の一エピソードにはとどまらない。この国の運命は、広大な領域と多様な人間集団を有する「帝国」一般を考える時、いや、より広く社会における多様な要素の統合と共存の問題を考えるとき、こよなき示唆を与えてくれるだろう。

8 超大国の曲り角

あまり知られていない(少なくとも私はほとんど知らなかった)オスマン帝国について、とてもわかりやすく書かれていました。入門編におすすめの一冊です。

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