ロボットというと、人間にはできないすごい能力を持っていたり、人間の暮らしを楽にしたりする「役に立つ」ものを想像しがちです。ですが、この本に出てくるのは、何の役に立つのかわからない、人間が手助けしてあげないと何もできない、そんな「弱い」ロボットばかりです。
著者の岡田美智男さんは、豊橋技術科学大学教授で、人間・ロボット共生リサーチセンター長というロボット研究の第一人者です。岡田さんはそんな「弱い」ロボットたちを通して、人のコミュニケーションとは何か、社会はどうやって成り立っているのか、ということを研究されています。本書には、そんな「弱くてかわいい」ロボットたちがたくさん登場します。
- 私たちが街をぶらぶら歩くのは、お掃除ロボットがゴツンゴツンぶつかりながら動き回るのと同じ
- 私たちの発話体系は自己の中で完結したものではなく、その意味や価値は他者との関わりの中で見出していくもの
- 共同作業を生みだすためのポイントは、自分が何をしたいのか、何に困っているのか相手から見えるようにしておくこと
ぶつかりながら歩くお掃除ロボット
お掃除ロボット「ルンバ」が我が家にもあります。自分で掃除機をかける余裕のない我が家にはなくてはならない存在です。
いろんなところにゴツンゴツンとぶつかりつつ、ランダムに動き回ることで結果的に部屋中の埃を吸い込む。ときにはサッシにひっかかったり、コードが絡みついた状態で力尽きているのを発見することもあります。そんな姿は「健気で」「一生懸命」お掃除しているように見えてきます。
自分のルンバに名前をつける人が多い、というのも分かる気がします。私はつけていませんが。
人間は、途中で動けなくなったお掃除ロボットを、しょうがないなあ、と言いながら戻してあげたり、ルンバが掃除しやすいように床に散らばったものを片付けたり、椅子を元の位置に戻したりしてあげます。
自動的にプログラムされた通りに部屋をきれいにするロボットではなく、ルンバのように、思わず手助けをしたくなるような<弱い>ロボットの姿。あちこちぶつかりながら、少しずつ方向転換して行っては戻り細かく動き回る姿は、街を歩き回る人間の姿を鳥の目で空から眺めた様子と似ているのではないか、と著者は指摘します。
わたしたちは自らの意思で街のなかを歩いている、それは確かなことだろう。その一方で、人の流れ、通りの看板、由緒ある石畳の路地、建物の装飾など、その街が私たちを歩かせてもいる。あるいはどちらかがというより、街と一緒になって、なにげない街歩きという行為を生みだしている。これはお掃除ロボットが部屋の壁やテーブルの脚と一緒になって行動を生みだしているのとそれほど大きなちがいはないように思えるのである。
第1章 気ままなお掃除ロボット<ルンル>ーゆきあたりばったりのなかから生まれてくるもの
たどたどしくおしゃべりし、そろそろと歩くロボット
例えば自動販売機がジュースを買った人に「アリガトウゴザイマス」と言っても、どこかそらぞらしく、気持ちがこもっていない、と感じるのではないでしょうか(機械なんだから気持ちも何もないだろうという感じですが)。
一方、人と人の会話を文字起こししてみると、文法的に正しい文章ではしゃべってなくて、思い浮かんだ単語をとりあえず言ってみたり、言い淀んだり言い直したりはしょっちゅうしています。
聞いている相手もそれを受けて、単語を繰り返したり、あいづちを打ったり、こういうことかな、と言い換えたりして、会話が進んでいくことがわかります。
著者はそのようなことから、人は自分の中で完結した思考を外に出すのではなく、言葉をとりあえず外に出してみて、相手の反応をみながら修正し、思考を少しずつ精緻化していく、というのが人の会話というものなのではないか、と考えました。
自分の発話の意味なのだけれど、自分のなかに閉じていては知りえない。その意味や価値を一旦は周囲に委ね、その関わりのなかで見出していく。そうした見方をするならば、「わたしたちの発話生成系というのも、自己完結した<閉じたシステム>ではなく、むしろ外に開いた<オープンなシステム>なのではないのか」というわけである。
第4章 <ことば>を繰りだしてみるー相手の目を気にしながらオドオドと話す<トーキング・アリー>
また、ロボットが歩く様子を見て、ドキドキしながら一歩を出し、地面からの反力を受けて全体のバランスを取っている様子に気付きます。このことから著者は、自己だけで完結するのではなく、自分の一歩を地面に預けていると指摘します。
そして、この発話や動歩行の仕組みは、まるで砂浜で行うビーチボールバレーのようなものだ、と著者は言います。
砂浜のうえで、ビニールのボールを地面に落とさないように、みんなで輪になってトスしあう、そんな姿を想像してみたい。
第4章 <ことば>を繰りだしてみるー相手の目を気にしながらオドオドと話す<トーキング・アリー>
砂浜ゆえの足元のおぼつかなさ、そして読みきれぬ風の流れ。一つのボールをトスしようにも、なかなか思い通りにゆかない。ひとまず、「どうなってしまうかわからないけれど・・・」と思いつつ、そのボールを高く打ち上げてみるけれど、ボールの行く末は誰にもわからない。誰にむけて打ちだされたものなのか、その宛先もあってないようなものかもしれない。でも、それは「誰か拾ってー!」と、誰かに拾ってもらえることを予定してのものだ。
人間にゴミを拾ってもらう「ゴミ箱ロボット」
次に登場するのは、自分でゴミを拾えなくて、人に拾ってもらう「ゴミ箱ロボット」です。ゴミ箱に車輪がついていて動き回ることができるのですが、ヨタヨタと歩いて、ゴミを「懸命に拾おうとしても、拾えない・・・」という姿を見て、思わず近くにいる人がゴミを拾って入れてあげる、というものです。
そのほか、お母さんに抱っこされて、「ひとりでは何もできないもん!でも、お母さんがいるから大丈夫」と、堂々と人の手を借りている赤ちゃんを見て、ロボットの自律的な機能を足していくのではなく、人の手を借りることで何かを行う「引き算」のロボットを作ってみようと著者は考えました。
わたしたちの共同行為を生みだすためのポイントは、自らの状況を相手からも参照可能なように表示しておくことである。「いま、どんなことをしようとしているのか」「どんなことに困っているのか」、そうした<弱さ>を隠さず、ためらうことなく開示しておくことで、お掃除ロボットは周りの手助けを上手に引きだしているようなのである。
第7章 <弱いロボット>の誕生ー子どもたちを味方にしてゴミを拾い集めてしまう<ゴミ箱ロボット>
まとめ
ロボット工学やAIの理系バリバリという感じではなく、とても優しい語り口で、何か小説を読んでいるような気分にもなるような、文章でした。
息子の中学受験の過去問で取り上げられていて、おもしろかったのでKindleで買って読みました。人間が思わず手助けをしたくなるような<弱い>ロボットの姿から、人と人とのコミュニケーションの本質について、考えさせられる一冊でした。
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