【レビュー】『正義の教室』飲茶

『史上最強の哲学入門』で大ファンになった飲茶さんの本。「正義とは何か」がテーマです。

この本はもともと私の小学生の息子が買って読んでいたものを借りて読みました。表紙のイメージの通り、ライトノベル風に書かれていますが、内容はさすが飲茶さん、とてもしっかりしています。

主人公は高校の生徒会長、山下正義(まさよし)、同じ生徒会の倫理ちゃん千幸ちゃんミユウさんの3人の女の子と一緒に風祭先生の倫理の授業を受けながら、「正義とは何か」について考える、という設定です。

Hibino’s Point
  • 正義の判断基準には「平等、自由、宗教」の3つがある
  • 平等を求める「功利主義」、自由を求める「自由主義」、宗教を求める「直観主義」
  • 安易に答えを求めるのではなく、考え悩み続けるしかない
目次

「正義」の判断基準

正義とは「正しい行為をする」ということ。

自分が何を正しいと思っている人間なのか・・・、何を正義だと思っている人間なのか・・・、自分の考え方の基盤、すなわち、『正さの基準』を、我々はもっとよく知らなくてはならないのだ。
ゆえに、我々は問いかけなければならない。
正義とは何か?

第2章 3種の正義「平等、自由、宗教」

風祭先生は最初の授業で、正義の判断基準には3つしかない、と言います。それは、平等、自由、宗教(道徳)です。

平等を一番優先するのが功利主義、自由を優先するのが自由主義、宗教(道徳)を優先するのが直観主義です。

そしてこの後の授業(つまり本書)はこの3つの判断基準に沿って、それぞれの主義がどのようなもので、どんな問題点があるかを具体的に考えていく、という構成になっています。

また、登場する3人の女の子、千幸は功利主義を、ミユウさんは自由主義を、倫理ちゃんは直観主義をそれぞれ正しいと信じており、読者も一つ一つの考え方を、女の子のキャラクターと重ね合わせながら理解していくことができるので、とても分かりやすかったです。

「平等の正義」を実現しようとする功利主義

平等を達成しようとする正義を「功利主義」と言います。わかりやすく言うと、「物事の正しさを幸福の量によって決めよう」と言う考え方のことです。

最大多数の最大幸福」すなわち「なるべく大勢の人間について、その幸福度の総量が最大になるような行動をすべきだ」ということ。

功利主義の創始者、ベンサム

功利主義の創始者はベンサムです。彼は、狂気的なほど功利主義を貫き通した人でした。

幸福とは、快楽が増加することであり、苦痛が減少すること」。ベンサムはそんな幸福度を測定する機械まで開発しようとしていました。

また、人は亡くなった後、多くの人の役に立つよう医学の発展のために解剖してもらうべきだと主張したそうです。そして、実際に自分は死後に献体して、さらに自分の死体をミイラにして残して欲しいという遺言を書いたそうです。そしてそれがちゃんと実現されています・・・

ベンサムのミイラは今もロンドン大学に展示されています(私はネット検索して写真を見てみましたが、思ったよりしっかりきれいに残されていて驚きました。普通に服を着て座っています)。本当に徹底している・・・

功利主義の問題点

しかし、功利主義の最大の問題点は、幸福度って客観的に測れるのか?ということです。例えば、最大多数の最大幸福を計算できるAIができたとして、私たちはそのAIが決めた通りに全て行動する、それが果たして幸福なのか、ということです。

くじ引きで選ばれた人は自分の臓器を複数の病気の人に移植して、より多くの人を救おうという「臓器くじ」は正義か?

「自由の正義」を実現しようとする自由主義

ベンサムの功利主義では、究極的には最大多数の最大幸福を実現するために各自の自由が制限される社会になってしまいます。それに対して、自由を達成することを目的とするのが自由主義です。

自由主義には「弱い自由主義」と「強い自由主義」があると言います。

弱い自由主義とは、「自由に生きることが人間の幸福であるから、社会は個人の自由を尊重しなくてはならない」という考え方です。どちらかというと自由よりも幸福を上位に置いています。これは実は功利主義と変わりません。

一方、強い自由主義とは、最も重要なのは自由であり、「自由を守ることは、結果に関わらず正義であり、自由を奪うことは、結果に関わらず悪である」とするものです。ベンサムの弟子だったミルは、「他人に危害をくわえないかぎり、好きにせよ」という「危害原理」を主張しました。

自由主義の問題点

自由主義の問題点として、完全に自由にすると、格差が広がり、弱者が排除されてしまう、ということがあげられます。なんでも「自己責任」にして、働きたくても働けない人などを見捨てるようなことは、善い社会とは言えない気がします。

また、完全に自由にさせると自分自身の自由を奪ってしまうような人を、放置しておいてもいいのか、という問題もあります。

自由にさせると自分自身の自由を奪うことになる人(例:ヘルメットを被らず危険運転をして事故を起こして死亡する人)に対して、自由を制限(例:ヘルメット義務化)してまで救うべきか?

「宗教・道徳の自由」を実現しようとする直観主義

3つ目の判断基準は「宗教」です。宗教的である、ということは、「物質または理性を超えたところにある何かを信じていること」。なので「宗教の正義」では、言葉や理屈の外側に善や正義がある、と考えます。

この考え方が「直観主義」で、人間が誰でも持っているだろう良心や道徳感など、直ちに感じ取った正しさを正義とします。

ここで主人公も言っていますが、その「感じ取った正しさ」というのが個人的な思い込みでないという保証はないじゃないか、という疑問が当然わいてきます。まさにその疑問が2500年にわたる西洋哲学史の中心的テーマだと書かれています。

絶対主義 vs 相対主義、イデア論 vs 原子論、実在論 vs 唯名論、合理主義 vs 経験主義。これらはすべて、哲学の歴史の中で、絶対的な「善」が人間の認識や理屈の外側にあるのかどうか、について議論されてきたことです。

直観主義の問題点

直観主義の問題点は、どれだけ長い間考えても、いくら議論を戦わせても、「人間に完全な正義が分かるわけがない」ということ。答えのない、どちらを選んでも誰かが不幸になるような難しい問題についてどれだけ考えても、当然のことながら「完全な正義」というものの答えは出ず、まじめに考えれば考えるほど悩んで疲弊して、精神が破綻してしまいます。

「嘘をついてはいけない」が絶対的に正しいとすれば、殺人鬼に家族の居場所を言えと言われて本当のことを言わないのは悪か?

まとめ

風祭先生、そして3人の女の子と一緒に「正義とは何か」を考えてきた正義(まさよし)くんは、最後に自分なりの結論を出します。それは私にとってすごく腑におちるものだったし、感動しました。(ほんとのラストは見事に予想を裏切られましたが笑)

世の中には、唯一の正しい答えがない問題がたくさんあります。マルかバツか、ではなく、私たちそれぞれがしっかり考えて、自分なりの答えを出して前に進んでいくしかない。それはとても苦しいし、勇気のいることかもしれませんが、逃げることなく考え続けていきたいと思いました。

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